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図書新聞経済時評1998.10.

 

貨幣論を読む

――新しい貨幣論の予兆か

 

橋本努

 

 今年になって出版された貨幣論三冊をとりあげたい。ナイジェル・ドッド『貨幣の社会学』二階堂達郎訳、青土社。岡田裕之『貨幣の形成と進化――モノからシンボルへ』法政大学出版局。加藤敏春『エコマネー』日本経済評論社。――いずれも新しい貨幣論への予兆を感じさせるものであり、貨幣をめぐる問題の難しさを浮き彫りにしている。

 おそらく貨幣の根元的な問題は、「グッドハートの法則」にあるだろう。グッドハートによれば、貨幣を管理するために一定の資産や手段を貨幣として認定しても、別の貨幣代用物や代用システムが直ちに作り出されてしまうので、もとの貨幣は利用されなくなってしまう。例えば一九六〇年代後半に合衆国で実施されたレギュレーションQ(預金金利規制)は、その抜け穴から意図せざる結果として、広大なユーロ・ダラー市場を発展させる一因となった。こうした事例が示すように、貨幣を定義して管理しようとしても失敗せざるを得ない。つまり何が貨幣であるかは、常に曖昧さを免れえないのである。

 にも関わらず貨幣をある程度まで管理しうるのは、社会の中に一定の信頼や慣習が形成されているからであろう。貨幣は、信頼や慣習との相互産出的な関係において、自生的なネットワークを築いていくことができる。ドッドによれば、貨幣論の課題はこうしたネットワークの性質をどのように捉えるかにある。そして彼は、既存の諸理論がいかにこの問題に迫ることができないかを徹底的に明らかにしている。しかし彼自身は新しい分析枠組を何も提出していないので、探求の手掛かりをつかむことはできない。

 ではどのように貨幣制度のネットワークを探求すべきなのか。かつて岩井克人氏は『貨幣論』において、貨幣はそれが貨幣として用いられるから貨幣なのだという循環論法を提示した。この認識の要点は、貨幣という存在が、貨幣を管理する側の認識を超えたものであり、貨幣の根拠は人々の実践的な貨幣使用に根差しているという点にある。しかし岡田裕之氏によれば、こうした認識は素人理解であって、研究の出発点をなすにすぎない。問うべきはむしろ、なぜ社会において実体なき貨幣が維持・形成されるのかであり、この問題こそ「貨幣の謎」なのだという。

 岡田氏によれば、貨幣の循環論法が成り立つのは、貨幣が三つの機能(価値尺度・交換手段・価値保蔵手段)を果たしているからである。また氏は、現代の様々な貨幣論を批判的に摂取しつつ、マルクスの貨幣論を批判的に組み直している。さらに貨幣の進化過程を、(1)国際金本位制、(2)ブレトンウッズ体制、(3)現行変動相場制の三段階に分け、豊富な歴史的資料をもとに論理を展開している。氏の分析はとても興味深い。しかし、貨幣の進化が現行の国際通貨システムで「完成」したとみなす点には疑問を感じる。貨幣を実体/象徴の二分法で捉える限り、今後の貨幣進化を射程に入れた議論を展開することはできないだろう。

 これに対して加藤敏春氏は、豊富なレトリックを用いて貨幣制度の新しいビジョンを描き出している。氏は一定の地域内で流通する貨幣を「エコマネー」と名づけ、その機能を決済機能に限定することによって、国際通貨との並行通貨制を構想する。欧米ではすでに、地域経済信託制度(LETS)が一、一〇〇以上の地域で展開されており、地域限定貨幣が流通している。日本でも長野県駒ヶ根市において、地元商店街や病院などの公共施設などで使える電子マネーが導入され、地域経済と福祉の両方を活性化している。こうした地域限定のエコマネーは、そこに流通圏を作って人的交流を促し、新たな信頼関係を醸成していく。氏によれば、これによって環境問題の解決も展望できる。したがって一方では金融ビックバンを施行しつつも、他方ではエコマネーを進化させることが望ましいという。

 ただ、氏の議論は、楽観的なイメージ・ワードを多用しすぎている点が気になる。エコミュニティ、エコルール、エコタックス、エコマーケット……等の造語は、言葉遊びになりかねない。こうしたイメージは背後にある現実の諸問題を隠蔽してしまう。いったいエコマネーは本当に「環境的」なのか。懐疑的にならざるを得ない。

(経済思想)